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DJ
MC
ロックDJからMCへ!
ライブハウス出身ロック系MCとして、
名古屋を中心に全国のストリートボールリーグで活躍中。
選手、お客さん、関係者…会場全てを巻き込むフレンドリーな女性MCが、
バスケをでら盛り上げます!
-----経歴-----
2016年からDJとして活動を開始。強烈な言葉で煽ったり喋ったりする「DJ×MCの融合スタイル」が音楽業界で話題になり、全国のフェスやライブステージに出演。
2021年にコロナ禍の影響でDJ活動が激減し、空いてしまった時間で新たな趣味としてバスケットボールに夢中になる。
2023年にはDJ×バスケの融合イベント「celebration!」を立ち上げ、運営を開始。試合中にDJ×MCをしていたところ、その様子がSNSにアップされ、次はバスケ業界で話題になる。SNSの動画を見た関係者からスカウトがあり、ストリートボールリーグのMCに抜擢、デビューを果たす。
STORY OF DJ
2013年11月3日
初めてバンドのイベントを制作した際「バンドが準備をする転換中のDJ」が居ない!という問題が浮かび上がった。DJの知り合いがまったくおらず、自分でDJをやるしかなかったので、家にあるありったけのCDを持ってDJをしたのが初プレイだった。それまでDJというものを見たことも聞いたこともなかったので、自分の感覚で音楽をつなげてその場を乗り切ろうと思ったら、意外にもすっごい盛り上がった。自分が好きな音楽で盛り上がってもらえるのが嬉しかった。その後も1年に1度、バンドイベントを制作し転換DJを担ったが、何度かDJをしていくうちに違和感を覚え始める。「イベントはバンドが主役。こんなに盛り上がっているのに転換DJはライブハウスの後ろでライトも当たらない。これはもったいないな」と気付き始める。
2015年8月2日
ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2015にUVERworldが初出演した。UVERがロックフェスに出るのはかなり珍しく、結成15年で遂にロッキンのステージに立ったほど。しかもメインステージ。もちろん、その瞬間を見に行った。初登場とは思えないほどの彼らの圧巻のステージ、最高すぎて泣きまくった。興奮しすぎて鼻血が出た(本当の話)。鼻血を止めようとぼーっとしていると、メインステージの隣にあるサブステージでDJがライブをしているのに気付く。それは転換DJではなかった。DJの名前は「DJ'TEKINA//SOMETHING a.k.a ゆよゆっぺ」、なんと同い年だった。彼は広いステージでDJ機材より前に出てお客さんを盛り上げている。フロアではおよそ1000人のお客さんが踊りまくっている姿、今まで見たDJのイメージが一気に変わった瞬間だった。帰り道、車の中でその光景を思い出しながら「あのステージでDJしたい」という夢ができた。
2016年5月8日
自分が制作するバンドイベントも10回目を迎えた。あれから3年間、バンドの転換DJと少しだけDJイベントへ出演し、機材も買った。もう迷いはなかった。今池3STARにて自分のイベントを行い、自分をデビューさせることにした。それは転換DJではなく「ステージDJ」としてのデビュー。自分のDJ人生をここから始めると決めて、
1曲目はBABYMETAL「Road of Resistance」を流した。
2017年6月24日
名古屋最大の野外ロックフェスティバル「FREEDOM NAGOYA2017」にDJとして出演する。朝10時からの出演、1番狭いエリア、同じ時間には国民的人気を誇るロックバンドが演奏している…というハードルがあったにも関わらず、600人の集客を達成させる。この日は前々から雨予報で朝から雨が降っていたが、つづきともみの出演時間だけ晴れるという事態になり、本格的に晴れ女の異名を知らしめることとなる。この日の二週間前に最愛の祖母を亡くし、お坊様より「亡くなったのでおばあ様は神様になるんだよ」と聞き、祖母に「わたしが野外で出演するときは晴れにしてほしい」と手紙を書いたことがその理由だと確信した。ついでに、エリア一面のライブキッズがツーステップをする動画はTwitterで瞬く間に拡散され、「DJつづきともみはツーステの人」という変なイメージが付く。
2017年11月22日
ある時、ライブで怪我をして右ひざの靭帯を断裂した。サポーターをつけていれば生活できるとのことでなにも治療はしなかったが、FREEDOM NAGOYAに出演した際に野外フェスのステージの高い段差を誰かの手伝いがないと登れないということに気が付き情けなくなった。自分の夢はロッキンに出演することなので、この足ではロッキンのステージを上ることができないと思い、右ひざの靭帯を入れ替えるという大手術を決意した。この日に手術をし無事成功。1年間のリハビリが始まった。
2018年1月17日
ご縁があり「ジャイアンナイト CLUB QUATTRO TOUR 2018 feat.DJピエール中野~ピ様とダ様~」のオープニングアクトとして名古屋クラブクアトロに出演。400人と大先輩を前に恐れることなく30分のDJをプレイした結果、ダイノジ大谷さんと凛として時雨のピエール中野さんから大絶賛をいただく。「お客さんが喜ぶ顔を求めて選曲しなさい」という言葉で、つづきともみの選曲の幅が広がる
2018年1月19日
今池3STARにて初めてのワンマンライブを行う。チケット代を無料にし、みんなで遊べる自遊空間を作るというコンセプト。チケットは250枚ソールドアウト。パンパンのフロアで暴れまくるお客さんを見ているのが最高に気持ちよかった。しかしこの日の動画が何故かTwitterで批判されることとなる。主に体系や声に対する誹謗中傷と、他人の曲で煽ったり喋ったりするななど、現地に来ていない人からの批判だった。ちょっと凹んだあと、この批判したツイートを現地で読み上げたりネタにしたりして、未だに自分の自虐ネタにしている。
2018年2月17日
自主イベント団体斬る'em ALLの三周年記念として、名古屋クラブクアトロにてライブイベントを行う。「Survive Said The Prophet」をヘッドライナーに、10アーティストに出演いただき、DJが名古屋クアトロで主催をするという快挙を成し遂げる。名古屋最大のライブハウスでイベントを成功させた想いはこの先の大きな自信になる。そしてなにより、ここまでつづきともみや斬るえむを応援してきた全員が居場所を獲得した瞬間だった。
2018年5月13日
名古屋クラブクアトロに引き続き、ElectricLadyLandにて斬る'em ALL第十七回を行う。ell.SIZEとの同時開催でサーキット方式な上に、バンドだけではなくアイドルやDJ団体も入れての開催に大きな話題を呼んだ。この日は記録的な大雨で、客足が遠のくかと思われたが、各界隈のお客さんが楽しんでくれた1日になった。しかしこの日を境に自分自身の在り方に悩むようになる。大きな会場でのイベントが続き経済的にも厳しい日々が続く。
2018年10月某日
自分の限界を悟り、斬る'em ALLを終わらせる決断をする。11月9日に開催するイベントが最後だということをスタッフ全員に伝える。最後のイベント、ということで「斬るえむ感謝祭」と名付け、今までのイベントで最安値のチケット代と、スタッフは全員DJ以外の出し物を提供することでお客さんに今までの感謝を伝える1日にしようと、一致団結する。渋々ではあったが、全員が覚悟するしかなかった。Twitterにて「斬るえむ感謝祭にて重大発表があります(斬るえむが終了すること)」と書いた一週間後、つづきともみの身に運が舞い降り、斬る'em ALLを続けていけることになる。これは具体的な話ができないが、運が付いていたとしか言いようがなかった。斬るえむ感謝祭開催まで二週間を切っていた。
2018年11月9日
斬るえむ感謝祭当日。斬る'em ALLを続けていけることは良かったが、Twitterに書いてしまった「重大発表」はどうしようという話になった。
本来では斬るえむが終了することを発表する予定だったが…
STORY OF MC
2020年3月某日
コロナ禍になってすぐ、DJとしてもイベンターとしてもすべての予定が無くなり、途方に暮れていた。毎日配信をしたりして何とかシーンを盛り上げていこうと試行錯誤していたが、なかなか思うようにいかなかった。そんな時、斬るえむメンバーに元バスケ部が多いという話から、外でバスケをしようということになり、撮影係としてついていった。バスケが終わった後、あるメンバーから「つづきさんも(ゴールに)入れてみたら?」と言われた。バスケはまったくの未経験で、ボールを持つのも初めてだった。しかし、ボールを投げたらゴールに入った。一瞬で、バスケへの興味が深まった瞬間だった。
2021年4月14日
Instagramの広告で「無料招待!」を見つけ、初のプロバスケットボールの試合観戦へ。
2021年8月8日
「愛知最強決定戦Vol.2」春日井市総合体育館第二競技場
INFO
tsuzukitomomi@gmail.com